2025年春に初めて高野山に行きました。その際に「女人道(にょにんみち)」という参詣道があることを聞きました。
なぜこのような道ができたのか、調べてみました。
以下、文化庁・日本遺産ポータルサイトより一部抜粋
空海が弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から高野山を下賜され、高野山は開創当初から「女人結界」が定められたと伝えられている。これは修行者の墜落を防ぐための不邪淫戒という戒めによって、修行者を律するものであった。後の思想である、女性と汚れを結びつけ、聖域への立ち入りを禁じた「女人禁制」とは異なっていた。
この頃の旅は、道や交通用具の発達した今日と違い、数ヶ月に及ぶこともあった。特に女性にとっては関所における女改めは厳しく、また高野山への参詣も辛い山登りであった。
高野山への参詣道として七つの道があり、それぞれの道を登りきった女人結界には女性のための籠り堂として女人堂が建てられた。
山内に入れない女性たちはここで手を合わせて祈り、夜を明かした。この七つのお堂は一つの道で繋がれており、女人道と呼ばれた。女人道は女人堂から女人堂へと金剛峯寺を中心に蓮の花びらに例えられた八葉の蓮華の峰々の尾根伝いの道である。
女人堂という名からは想像を覆す険しい道である。女性たちはお堂だけではなく、この険しい道を歩きながら樹間から垣間見える壇上伽藍や奥の院に手を合わせていた。この女人堂の参拝については九州からの夫婦の高野詣の旅日記が現在に残り、それにより女人堂の間取りや参拝者が全国各地からであったことが判っている。
女性達は、女人堂に籠り、夜通し祈った後に、眼下に悠々と流れる紀の川を見下ろしながら山を下りた。峠を越え、山を登る厳しい参詣ができない女性たちは高野山の麓にある慈尊院、高野街道近くの金剛寺でお参りをした。
古の道に思いを馳せながら、かつての女性たちがどんな道を、どんな気持ちで歩いたのか、私も是非歩いてみたいと思いました。
京都一周トレイルの後、高野山まで足を延ばして女人道を歩きました。
東京から合流してくれた友人、そして引き続き南アフリカから来日したお二人とともに五人で歩きました。
女人道は現在では3時間ほどで回れる整備されたルートです。13時過ぎに不動坂口女人堂を出発しました。不動坂口女人堂は唯一建物が残っている女人堂です。


この日は不動坂口女人堂からスタートして大門口女人堂跡、龍神口女人堂跡、相の浦口女人堂跡、大滝口女人堂跡、大峰口女人堂跡の六ヶ所を巡りました。
不動坂女人堂からは直ぐに山道に入ります。
女人堂のあった場所の殆どは今は小さな祠が建っているだけです。大門付近が唯一高野山に接していますが、その他は山道です。
落葉の季節でしたが、山の中は森深く、鬱蒼としています。トレッキングシューズなどなかった時代にこの道を歩くのはさぞかし大変だったと思います。
夜にはお堂の灯り以外は暗闇に包まれていたことでしょう。秋・冬の夜は寒さも厳しかったことでしょう。
この道を歩きながら人の信仰について考えていました。遥々高野山まで来て、この険しい道を歩く理由です。
現代では、喧噪を離れて自然の中をのんびりと歩く道で、多くの人は往時のような悲壮感も切迫感もなく歩いているのではないでしょうか。幸せな時代を生きていると思わなければなりません。
この日は6.5㎞を2時間半ほどで歩ききりました。
街道歩きとも少し違う思いに浸りながら巡った道でした。





今回の動画をInstagramに掲載しています。そちらもご覧いただければ幸いです。女人道
